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本は要約ではなく原典を読みましょう

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メジャーな本となると読みやすい漫画版の本や要約版、最近はSNS上にアップされる図解を頻繁に見るようになりますね。

それを見るとなんとなく原典を理解した気にはなるのですが、そうではなく原典を読みましょうというのが今回の記事のテーマです。

データを解釈し論理で繋いで主張を紡ぎ出す

ここでは考え方を簡単にするために本を4つの要素からなるものと考えます。

データ:観測した事実

解釈:観測した事実をどう抽象化したか

論理:解釈同士の整合性をつなげる基本となる考え(A x B = Yのような四則演算にあたる) 

主張:データ・解釈・論理のセットを使って導出される結論

本は上の4セットを複数つなぎ合わせたものとなります。

対して要約版というのは主張を紡ぎ出すために必要なデータ・解釈・論理を大幅に削いだものだと考えましょう。

図にすると以下のようになります。

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対して要約版は以下のようなものと考えます。

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要約版では前提となる世界理解の根本原理部分、先進的な主張をするための慎重な論証、複数解釈があるはずだが何故今回の解釈や主張を採用したのかという部分を削ぎます。

特に基本原理部分を削ぐことは本を大変読みやすくします。

何故なら読者に考えること(自分が現在理解している前提のまま読めてしまい再解釈を迫らない)を放棄させるからです。自分が通常考える方法と異なる形で論証を進められると読書は大変な頭脳負荷がかかります。

このため原典を放棄し要約・図解・漫画版へ人気が集まるのでしょう。

原典を読む理由

要約版は実はほとんど何も分からない

本の筆者は大量のデータの中からごく一部を極めて恣意的に取り出し、主張に都合がよいように解釈し、論理でつなげて主張を導出します。

され、時代や環境が変わり、本には登場しなかった無視出来ない新データが登場したとしましょう。

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これは実は当たり前にあることです。

たとえばハーバード大学教授が普段目にしており取り上げるべき事例と日本人の我々が生活し目にする取り上げるべき事例は異なります。

シリコンバレーのgoogle,appleなどを解釈し導出された主張とメルカリ・ラクスルを見て導出された主張では必ず差異が発生します。

ここでその本の筆者が捉える解釈方法や論理が理解出来ていない場合はどうなるでしょうか。

データ同士を再解釈し、新たな結論を導出することが出来ません。

論理体系の構築方法という基本がないとAT&Tの事例とメルカリをつなぎ合わせることが出来ず新データは再解釈に役立たずになってしまいます。

主張が革新的であればあるほど、つまり世の中で話題になる本であるほど、一つ一つのデータや論理には新たな発見があります。

結論部分だけ見て「サピエンスが発展したのは認知革命があったからだ!」とだけ言われてもほぼ無意味になってしまいます。

批判が出来ない

例えば話題のハーバード大の教授が書いた本は絶対普遍にして神聖な書でしょうか。

これはまずありません。

どのような本も批判にさらされるものです。

しかしこの批判は前提となるデータや論理を知ってこそ批判出来るものです。

地球は動いている!と主張するガリレオに「聖書と違うぞ!」という批判はある意味正しいですが(聖書が絶対普遍な書なら)、ローマ教皇が何故ガリレオが地球は動いていると主張するのかを慎重に検討することが出来たのなら新たな歴史がありそうです。

上の例はやや抽象的ですが、同じマウスの行動という事象セットを見ても

どのデータを取り出すか(マウスの生存率なのか、ホルモン量なのか、電極の反応なのか・・・)

どう解釈するのか(マウスは生存した、というのか、マウスは苦しんだというのか)

どうつなぎ合わせるのか

これらによって主張は大きく異なります。

自分が新たに発見したが書物の筆者は知らないデータを見た場合、書物の一部主張に批判的になるのは当然です。

しかし、筆者の解釈方法、論理の構築方法が分からなければ合理的批判の余地がなく

「あいつは分かっていない」という他なくなってしまいますね。

どのような場合であれば要約を読んでよいのか

要約ではなく、原典を読もうと主張しましたが一方でそれは不可能です。

時間としても無理ですし、我々が見るほとんどの本は何かを基本的としています。

つまり全ての文章は論理全てを解説しているわけではないので、いわば要約です。

それであれば全て原典を読め!という原典原理主義は乱暴ですよね。

要約を読むのが効率的なのは前提とする考えを共有しているとき

例えばビジネスのフレームワークに慣れている場合は新たなフレームワークが提唱された場合もその本を読むのは速いです。

何故かと言うと新たなフレームワークも既存フレームのアップデートだからです。

前提となる考えは既にあるわけですね。

このような場合、大昔のフレームワークから再度遡る必要性は薄くなるでしょう。

他にも過去読んでおおよその論理体系を把握しているが再度噛み締めたい場合もリマインダーとして要約は有効です。

新たな分野で要約だけ見ていても論理体系が構築されない

例えば普通にビジネスの生活をしていると利己的な遺伝子、サピエンス全史、ホモデウス、銃・病原菌・鉄など生物学的・歴史的な考え方に触れる比較的機会は少ないと思います。

ここで要約版を読んでしまうのは実に勿体無い!

素人にとっては図解サピエンス全史のようなまとめだけ見てもほぼ何も発見がないのではないでしょうか。

良書と呼ばれるものはそれまでの論理体系を踏まえ議論されているものが多く、一冊読むことでその学術分野の論理体系の雰囲気くらいは感じることが出来ます(もちろん内部には様々な派閥があります)。

自分にとって新分野かつ無骨な議論がなされている本こそ原典を読む意味があります。

ちなみに話題の人工知能について

猿でも分かるディープラーニング的な本を読むのもありですが、

今後、センサ・データ・アルゴリズム・アクチュエータの重要度が下がることはこれらのセットが大事件を起こして信頼が崩壊しない限り数十年はないように思います。

話題の人工知能(deep learningもしくはクラシックな学習型アルゴリズムを含める?)はこのアルゴリズムの一部に当たります。

例えこれらに対する信頼が崩壊したとしてもポスト-アルゴリズムの時代はこれらのセットを克服することによって形作られるでしょう。

このように重要な知識であれば数学を避けた猿でも分かるシリーズよりも一度数学的知識を元にアルゴリズムや制御を勉強されては如何でしょうか。

例えばスマホのスクリーンは何故丸っこい指がパネルを触っているだけなのに意図した位置を特定出来るのでしょうか。光センサは何故明るいということが分かるのでしょうか。

考えてみると面白いものが周囲には溢れており良い学習材料になるでしょう。

朝やたら早めに目が冷めてしまったので久々の考察記事でした。