自分の手柄についての考察
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丁度私が最近よく思っているテーマが記事になっていたので私も抽象的な考察記事でも書いてみようと思います。
自分てなんか価値あったかな
今まで生きてきて自分が携わったもので形となる成果が出たものは結構な数あった。それはスポーツで勝ったり、事業が上手く言ったり、試験に通ったりという成果だ。
それではそれは自分の手柄なのか、と言われると自分の手柄のように見えるだけで自分の手柄ではない、とどれも言えそうな気がする。
試験に受かったのは勉強環境を整えてくれた親のおかげ、スポーツで勝てたのは素晴らしい環境を用意して熱心に指導くれたコーチのおかげ、事業が成功したのは一緒に取り組んだ人がよかっただけ。
自分じゃなくてもその環境さえあれば誰でも上手く言ったのではないかといつも疑ってしまい。「あれやったのですか!すごいですね!」と言われても「いや、あれ実はAさんがすごかったんですよ。私が目立ってますけど私がやったことなんて大したことじゃありません」と言ってしまう例がほとんど。
こう考えていくと、うまくいく環境を構築した私はすごいのか?という問いになるがコレをやったからと言って「あれは私の成果、仲間を集めたのは私だ」なんてとても言えない。
何回も成果のようなものを出し続けても何歳になっても「自分に価値なんてないんじゃないか」という考えから出ることが出来ない。多分一生私はこのような考えで生きていいくのかなと思っている。
そもそも「手柄」という概念は必要なのか
「自分の手柄」というものはあまり実態がないと上で悶々としましたが具体的に前提を置かないと多分定義は難しいと思う。では「手柄」が必要な場合とはなんだろうか。
自分にプライドを持ちたい
まず自分向けの意味合い。自分が無価値なものとか思ったら生きてて悲しくなるじゃないですか。自分を支えるための「手柄」。これはもはや自分が納得すればよいと思う。
自分はあれをやった、あれは自分の貢献、自分には価値がある、これは各々が思っておればよいがあまりに自分の手柄を過大評価すると仲間がついてこないしそもそも自慢だらけで嫌味な人間になる。
大いなる貢献をした人を押しのけて「あれは自分の手柄」なんて言い出したら仲間はついてこないし、あれは自分の手柄、これは自分の手柄なんて言う人とは付き合いたくないよね。
これが横柄さとなり謙虚さの欠如となりその人の能力の伸びを阻害する。あまりこの意味で「手柄」を振りかざすことは主にマイナスになる。「あれはAさんがすごかったけど、私もその一翼を担ったよね」くらいが丁度いいのではないか。
他人に向けて
あまり謙虚なコミュニケーションばかりしているとオラつくことが必要なときにオラつけない。オラつくべき時はそれこそ転職のときや営業のときだろう。要は自分を売り込むときだ。
このときに「いやいや私なんて」というコミュニケーションでは負けてしまうだけですね。ここではオラつきましょう。コンサルの提案資料なんて「〇〇エキスパート!〇〇地域のリーダー!〇〇のコンセプトを想像!」のように個人オラオラの殿堂のような資料になってます。
このときだけここぞとオラつけばいい。それを実際に「自分の手柄」と思っているかどうかは別。営業なんですから。
基本的に認識は謙虚に、必要なときだけオラつく
このように考えると自分のプライドを保つために自分の手柄意識を強く持ち過ぎると悪い影響が増える。しかし必要なときはある。必要なときだけオラつけばいい。