海外就職志望必見!公務員、ベンチャーを経て、インドへ転職し活躍し続ける転職事例
シャイニング丸の内をフォロー
こんにちは、今回のインタビュー対象は、北海道大学医学部保健学科を卒業しながら、20代半ばで単身インドに渡り、インドの現地採用職として1年半勤務された後、今日本で急成長中のメガベンチャーに転職をされた女性、大角さんです。
一見野放図なキャリアを歩んでいるように見えますが、一貫して持っている海外への想いと、自身のキャリアを昇華させるための論理的な思考と行動の積み重ねには、他の追随を許さないものがあります。遠回りにも思えながら、現在はIT系のメガベンチャーにて、魅力的な年収提示とともにポジションをつかんだ彼女。その思考過程と、行動を支えるマインドには多くの学びがあります。
ミドルからアッパーミドルへ、そしてさらなる高みを目指したい方や特に一度インドなどの国へ就職した人のキャリアに興味がある方は、是非読んでみて下さい!
- 何故医学部保健学科を専攻に選び、看護師を志したのか
- 公務員から青年海外協力隊を志望、そこから考え直す
- 公務員を辞めてビジネス・ベンチャーの世界へ飛び込む
- ガムシャラに動く中で、自分のやりたいことを見つめなおす
- 海外に惹かれた理由と、日本を飛び出したきっかけ
- 何故インドへ転職しようと考えたのか
- 現地採用を選択したのはビジネスに携わり続けるため
- インドへ転職し現地採用として勤務する傍らで、365日連続でブログを更新
- 決めたことをやりきる、折れない心の作り方
- キャリアアップにつながる「日々の努力」を支える成功体験とは
- 同じ機会を与えられたとして、どれだけ成長できるか
- 自己責任論が自分を成長させる
- オフの過ごし方
- 現職(IT系メガベンチャー)で働くことを決めた理由
- エージェントを使わずにインド関係求人をどのように転職先を見つけたのか
- メガベンチャーにおける年収
- 経験を積むなら、その経験を何年後にどう売るかまで考えよ
- 今後構築したいキャリアと、その方向性
何故医学部保健学科を専攻に選び、看護師を志したのか
―まず、大角さんのキャリアを簡単に教えて頂けますか? なぜ看護学部を選んだのでしょうか?
北海道大学の医学部保健学科で看護学を専攻しました。看護学を選んだのは、両親の影響が強かったと思います。親が消防士(母は専業主婦)で「手に職をつけなさい」と言われながら育ちました。
出身が北海道で、経済的な理由と、学校のレベルの高さから北海道大学を選択しました。
北大に行った時は具体的な夢などは特に無かったのですが、海外には興味がありました。
海外への興味は「国際協力・国際支援がしたい」といったもので、具体性があるものではありませんでした。
その後、JICAの青年海外協力隊を知り、2年間の途上国での経験が積めることから、そこに応募することを目指そうと思いました。幸い、医学部を選んでいたため、卒業時には看護師免許と保健師免許を持っていたので、この分野で技術を持って海外を目指そうと。
応募条件として、3年間の実務経験が必要だったので、日本で最も海外に近い街・東京に出て、保健師としてのキャリアを積んで、そこから協力隊と目指そうと考えていました。
公務員から青年海外協力隊を志望、そこから考え直す
社会人のファーストキャリアは区役所の保健師としてスタートしました。東京の公務員です。
社会人になって最初の1年は忙しく過ぎていきましたが、2年目くらいから「協力隊以後のキャリア」を考え始めました。そこで、帰国後の方に会う機会があったのですが、残念ながら今の日本では協力隊のキャリアはあまり高い評価を受けられず、ボランティアとして扱われる傾向にあることを知りました。
私自身は、協力隊としての結果も次のキャリアに活かしたいと考えていたのですが、2年間の限られた期間で、誰かに決められた場所で、どうやって実績につなげていくかを考えたときに、もしかして協力隊の選択はすこし違うのではないかと考えるようになりました。
それに加え、公務員と言う気質があまり好きではありませんでした。私は就活をやったことが無かったので、社会人2年目になって、社外の人と出会うことで「業界」と言うものを知り、世の中には「稼げる業界」「稼げない業界」と言う区分けがあることに気づきました。
自分としては「やりたいこと」から先に考えてきたため「その仕事が稼げるか否か」は、それほど当時は考えていなかったのです。
当時、同じ大学から多くの友人が大手企業、上場企業に行っており、ボーナスなどで「これだけもらった」と言う自慢を聞くようになりました。自分は今まで「稼ぐ」と言うことに意識を向けてこなかったのですが、選んだ道でこれだけ給与に格差が出てくるのだと実感しました。
私が所属していた区役所では「稼ぐ」という意識からはとても遠い日々でした。区の税収が減っていく中で、自分の中で「実績」だと思うものをどれだけ作っても、給与が変わるわけではありません。私はその環境に危機感を覚えました。
「お金はどこに集まり、どこに流れるか」と言うことに意識を向けた時に、ビジネスにおいては「バリューを出せる人」にお金が集まり、稼いでいるのではないかと言う仮説を持ちました。
そのため、自分も「企業にバリューを出せる人材を目指そう」と考え、2年目の終わりに公務員(保健師)を辞めました。4年の学部生活と、2年の実務経験、計6年間医療の世界に関わってきましたが、やめると決めてからの行動は一瞬でした。
編集コメント:
この後にも出てきますが、自分が違う、と違和感を覚えたことに対して、即アクションを起こせる、リスクを取れると言うのが彼女の強みに1つであることのように思います。
公務員を辞めてビジネス・ベンチャーの世界へ飛び込む
そこで、わからないことも多かったのですが、公務員を辞めてからは「なるべき小さく成長期の企業で、自分の裁量権が持てそうな会社に入ろう」と決めました。その後頂いたご縁で、1社目は出版コンサルティングで勤務をし、次に教育のベンチャーに転職しました。
その時はガムシャラに目の前の仕事に打ち込んでいました。やる気を持って取り組んでいれば、次の仕事に声をかけてくれる人がいることに気が付きました。「こういうことをやりたいなら、こんな仕事をやってみれば」とキャリアの相談に乗ってくれる人も出来ました。
当時はあまり長い目でキャリアを見ることは出来なかったので、目の前に降ってきたチャンスにとりあえず乗っかる、と言ったスタンスでした。その結果「よくわからないけど、何でもできる人」のような、今につながる自分自身の原型が固まった時期なのだと思います。25歳の時だったと思います。
情報に飢えていた部分もあると思います。だから土日もフルに活用して色々な方にお会いさせて頂きました。時にはイベントなどを自ら企画することも。自分のイベントに人が集まらなくて、100人にDMを送ったりするときもありました。「何かよくわからないけれど、ガムシャラに動いていた」と言うような時期だったと思います。
ガムシャラに動く中で、自分のやりたいことを見つめなおす
26歳。ベンチャー企業の中でポジションも上がり、給料も上がりましたが、自分の中の違和感が少しずつ大きくなって来ました。
「あれ、私は昔、海外に行きたいんじゃなかったっけ?」と言う気持ちです。ちょうど26歳と言う年齢は「社会人を3年経験して協力隊に行った場合、海外にいるはずの年齢」だったのです。私は26歳の自分を想像して、逆算してキャリアを作っていたのですが、何故かベンチャー企業の中で毎日奮闘をしていました。
それはすごく素敵なことなのですが、本来自分が思っていたことではなかったはず。「会社がどう」と言うことではなく、全ての結果は自分自身の選択にあり、だから自分でもう1回、そのチャンスを探しに行こうと強く感じたのです。
そこで現地採用で現場・途上国に行き、出来ることをやって、ビジネスや稼ぐことに貢献が出来たら、1つ自分が目指した形になる。そう思って「自分で海外に行こう、今行こう」と決めました。
海外に惹かれた理由と、日本を飛び出したきっかけ
―なぜそこまで海外に惹かれたのでしょうか?
中学生の時に生徒会長をやっていた際に、奨学金支援で途上国のスラム街の現実やゴミ山で暮らす人々のドキュメンタリーなどを目にしました。日本と全然違う、この現実を何とかしたいと思いました。そこで国連で働くにはどうしたら良いか、と考えましたが、要求される条件、例えば大学院の卒業など、そういった条件が現実的でないと思いました。そうこうしているうちに、北大医学部の保健学科に居たので、その強みを最大限に活かそうと思っていました。
自分では転機はたくさんあったと思います。昔から今の自分をイメージ出来たかと言ったら全然そんなことは無くて、いろんな人に出会って話を聞く中で「結局自分って何がしたいんだっけ?」「このままで良いんだっけ?」と問いただす瞬間がありました。それを繰り返していくと、ビジョンが明確になっていくし、年齢を重ねるといろんなことを知っていくから見える世界が広がって、学生の頃は「協力隊」が目標だったけど、社会人になるとそれって実は「一瞬のボランティアに過ぎなかった」と気づき、そう言うサイクルを繰り返してゆく中で、明確になって行きました。
ベンチャー企業で働くと、とにかく人が足りないので何でもやらざるを得ない。それはそれで楽しかったし、その環境の中で漠然とした「成長している実感」はあったのだけれど、でも何がどう、具体的に成長しているのかはよくわからない。それと「そもそも自分はベンチャー企業で働きたかったんだっけ」と言う疑問が拭えませんでした。
何故インドへ転職しようと考えたのか
そこで、アジアの現地採用に飛び込むことを考えました。国を選ぶにあたって考えたことは「きちんと領域を選ばないとお金にならない」と言うことです。だからこれから経済の発展が見込まれる国にしようと。
ビジネスの観点および社会問題の解決両面からインドを選択
これからビジネスのチャンスもありながら、その活動や事業の先に、自分が途上国に対して実現したい「社会問題の解決」を出来そうな国はどこかと考え、インドを選びました。
インドと言うのは、さまざまな社会問題を抱えながらも、今後の世界最大のマーケットとして大変注目もされていました。
インドにいることで希少性が高まる
日系企業もたくさん進出しておりますが、その反面でインドがあまり好きでない人も多いのが現状です。ここに関わっておくと、人材としてのバリューが上がるのではないかと言う視点と、あとはやはり途上国の発展に関わりたいと思っていた自分の思いも達成出来そうだと考えました。
キャリアを伸ばしたいと言う視点では、シンガポールも良いのかな、と思いましたが、
求人自体が高度なプロフェッショナルを求められるものが多く、自分が応募できそうな仕事は、私でなくてもできるようなものが多くありました。
他方、インドは人材が少ないので、まだ上を目指せる可能性がありました。そこで私はインドに決めました。
現地採用を選択したのはビジネスに携わり続けるため
―NPOやワーキングホリデーではなく、現地採用を選んだのは何故でしょうか?
NPOでは継続的に十分な資金を算出する方法が、当時は思いつきませんでした。ビジネスをやっている人が言う「(何かを始めたり、事業を続けたりするのには)お金が必要だよ」と言うのは正論だと思います。自分のバックグラウンドではお金の教育はあまり受けられなかったこともあり、社会人になってから「お金が大事」と言う価値観は自分の中にスッと入って来ました。
お金に対するこだわりが無かった当時、まわりの人に「お金って大事じゃない?」と言われても、全然意味が分からなかったのですが、でも逆に「ビジネスでモデルを作ってお金を生み出さないと継続して支援ができない」と言う話を聞いた時に、これは本当に理にかなっていると腹落ちしたのです。
NPOの発想では、その反論としては弱いと思いました。もちろん国際協力の実務をやる人がいなかったら現場は回らないから、そこを軽視するつもりはないけれど、自分はビジネスの世界にウェイトを置いて、継続性にフォーカスしてゆく方が良いと感じました。
インドへ転職し現地採用として勤務する傍らで、365日連続でブログを更新
インドに渡ってからは立ち上がったばかりの人材紹介会社の一人目の社員として参画したのですが、その仕事と並行し、毎日インドに関するブログを書き始めました。その背景には、学習塾のベンチャーで勤務していた際の体験が元にあります。
学習塾のベンチャーで働いていた時は、もとのお金が無く広告費もかけられない中で「どうやってビジネスを拡散していくか」と考えたときに、ネットの力を最大限に活かす施策を取りました。
自分の会社のコンテンツを大量にネット上に投入していた時期があったのですが、それがバズって拡散された時に、本業のビジネスがどんどん大きくなっていく姿を見ました。
学習塾の客層は中高生で、多くの生徒がネットを使います。それで学習塾の事業が大きくなっていくのを目の前で見ていたので「これからの時代はネットだ」と言う確信が自分の中に芽生えました。
それがインドにおいてもブログや動画、Twitterを始めるきっかけになり、これがすごく上手くいきました。企業からも仕事の依頼や問い合わせが来るようになりました。
そこで得たのは、世の中に対して自分がしたいことを発信し続ければ、それが形になるという感覚、確信に近い気持ちです。1つ成功体験を持つと、心が豊かになりますよね。次に何かやりたいことが見つかった時でも「こういう風にやれば上手く行くのではないか」と言う仮説が立てやすくなると言うか。特にインドはそこまで発信する人間がいなかったので「インドで情報発信をする人」というポジションを取れました。
決めたことをやりきる、折れない心の作り方
―決めたことをコツコツやりきる、みたいな強さはどこから生まれるのでしょうか?
「国際協力」というワードをとったときに、それを実行するのは、とても大きい目標であると感じました。理想を言えば、マザーハウスの山口絵理子さんみたいな社会にインパクトを残せる人になれたら、と言う憧れもありました。でも自分には、海外留学の経験もないし、華やかなキャリアを実現できる財力もなかったし、そう言う中で、自分の能力やバックグラウンド、どんな強みを手札として活かせるのかと考えた先に、現地に直接足を運び、それを発信するブログという方法があったのです。自分なりの目指したい社会を作れるアプローチ方法が、これかなと思いました。
せっかくインドまで来て、自分が目指していたことが出来そうな環境があるのだから、継続して発信し続けることで、何かが変わるかもしれないと考えました。
ブログの場合、反響が来るので、それが嬉しく、自分を支えるモチベーションになりました。コメントが来るだけでなく、PV数など目に見える形で数字が伸びていくのはとても良いものでした。
もともと親には「上には上がいると思い、現状に満足せず努力をしなさい」と教えられました。なので、常にビジネスマンとして埋もれる危機感はありました。何かうまくいったときも「客観的にその結果は妥当なものなのか」「自分がこのままで、今後必要とされなくなることはないか」と何度も振り返り、そういった中で、独自のアクションを起こそうと思っていました。
―危機感がモチベーションの源なのでしょうか?
そうですね。世の中にはもっと結果を出している人がたくさん居るし、インドに行った当時の自分のステータスは「26歳でインドの現地採用になった人」と言う、手放しで称賛出来るようなキャリアではありませんでしたから。インドには大手企業の駐在員も居て、駐在員と現地採用の待遇の違いも感じていました。
自分は旧帝大も出て、一般的な王道なキャリアを歩めることも出来たのに、道を外れてしまったというモヤモヤした気持ちですね。
同じような学歴なのに大手総合商社でインドに赴任して来ている方とは稼ぎも全然違ったので、今自分がここ(インド)で何が出来るか。それをすごく考えていました。
それと「過去の自分に負けたくない」「前日の自分に負けたくない」「前の日に書いた記事よりももっと良い記事を書きたい」と、誰かとの比較もあるけど、自分が自分に負けたくないという思いがありました。
―そこのストイックはどこから来るのでしょうか?
ずっと成長していたい、と言う気持ちです。その中で自分では「成功体験」を大事にしてきました。例えば20歳の頃は、全然英語が喋れなかったけど、今は外国籍のメンバーと仕事をするまで成長しました。
20歳の時にはじめて旅行でタイに行ったのですが、その時に英語を全然しゃべれなくて、それがすごく悔しく、日記にその悔しさを書いたことを覚えています。でも今は、普通に話せます。その悔しい気持ちを原点に、日々を積み重ねていけば、気づいたら必ず変化しています。「今努力をすることで、1年後、3年後、5年後に見える景色が全然違うだろう。それがあるんだったら、そのための努力を今日もまたしておこう。」そんな感じです。
自分が持っている夢を達成した瞬間の快感、ゾクゾクする感じと言うのは、一種の中毒性があって、例えば今から10年後に今では想像もできないような大きな舞台に立てるチャンスが来るならば、今日の努力はぜんぜん苦になりません。
編集コメント:
キャリアアップの利点としては、キャリアを磨けば磨くほどに(年収が上がって)生活の満足感が高くなっていく実感と、仕事においてお客様に何か成果を褒めて頂けた時の「俺かっこいい!!」と言う自己肯定感。その2点があると思います。楽器の練習なども同じで、昨日できなかったことが、今日できるようになっている、と言うのは常に自分に喜びを与えてくれますね。 残念なことに成功体験が無いと、その快感がイメージ出来ません。快感を得られるイメージが無いと努力は辛いだけなので、それだったら小さい成功から始めて、それを雪だるまみたいに大きくしていけば良いのかなと思います。
キャリアアップにつながる「日々の努力」を支える成功体験とは
日本には褒める文化が少ないですよね。それが残念だとは思います。自分が頑張ったことを、周りがもっと褒めてあげれば、本人がもっともっと伸びるきっかけになるのに、それが足りないのは勿体ないですよね。
私自身も、正直あまり「褒めてもらう」教育は受けてきませんでした。でもたまに、自分では思いがけない結果が出せたとき、家族ではない他の人が自分を褒めてくれたとき「もしかしたら自分は、できるのではないか」と少し感じることができたのです。その一歩は、すごく大きな意味がありました。
私の成功体験の原点は、中学生の時に生徒会長に選んで貰えたことです。冷静に考えれば全然大したことではないのかもしれないのですが、その時に少しだけ「私って、実はすごいのかもしれない」と言う気持ちと、そのポジションを得たことによる重圧、例えば全校生徒の前でスピーチをするとか、そう言うプレッシャーに晒された経験と言うのが自分を磨く原点になったのだと思います。
それとやっぱり、海外に行きたいと思い続けた気持ちを達成出来た瞬間が、すごく嬉しかったんですね。初めてインドに降り立った日、グルガオンの街を車で走ったときの光景が、いまでも忘れられません。昔から決めていた26歳に、自分で決めて海外の地に来て、夢が1つ形になった。こんなに嬉しい気持ちになるとは、自分でも想像していませんでした。
同じ機会を与えられたとして、どれだけ成長できるか
―ただ上昇志向を持つだけでなく、成長する角度も大事ですよね。
そう思います。インドに居ても日本人のコミュニティの中にずっといる人たちは全然英語も上達しなかったし、インドのビジネスの情報も全然取れていなかったかと思います。場所と言う観点だけでなく、自分がどの環境に身を置くか、と言う意識を持つことが必要かもしれません。
冷静に考えれば環境が人を作る、と言うのはみんなわかることだと思います。誰と話すかも重要です。
それから、圧倒的にすごい人と話をした後に、悔しいと思えるかどうか。悔しいと思えないと成長は無いと思います。悔しいと言うのは伸びしろなので、それはすごく良いことです。
例えば国際会議に出て、英語が全然聞き取れなかった。その時にどう思うか。「すごく悔しかったから、帰って英語を勉強しよう」と思う人と、「なんか全然だめだったな」と落ち込んで、カラオケか何かでストレスを発散して終わる人。そこの違いは大きいと思います。
自己責任論が自分を成長させる
―同じ体験をしても、悔しいと思うか否かは、どこで別れるのでしょうか?
「自己責任で考えるかどうか」じゃないですか? 昔あるビジネスをしている方に「自分の前で起こる事象は、すべて自己責任だと思え」と言う話を聞かされました。23歳か24歳の時だったと思います。それまでは何か辛いことが起きたら「他人のせいだろ」と思っていたことがあった自分にとっては、とても新鮮な教えでした。
友達づきあいにしても、自分のレベルが大したことが無かったら、すごい人とは友達にはなれません。(自己責任と言う)その発想で来ている人間は、何か辛いことが起きても、それは全部自分の力不足、自己責任だと受け止められるから「この辛い体験を乗り越えるためには、頑張らなきゃいけないんだ」と、努力をしてゆく方向に落とし込めるのだと思います。人のせいにしている人間は成長しない。そう言うことです。
でも私も人間なので、調子が上がらない時もありますし、上手く行かない時だってあります。
海外に行きたいと思ったのは学生の時ですが、そこから何年も海外には行けませんでした。遠回りをしていた時期もあるけど、今はストーリーが繋がり、たまたま上手く行っているように見えます。今はメガベンチャーで仕事を与えていただき、会社が世間的に注目される会社だから高揚感も大きいけれど、当然浮き沈みはあると思うし、今後どうなるかもわかりません。でもそのような局面においても、それを自己責任だと受け止めて、粘り強く考え続けて行動を起こしていけば、必ず乗り越えられると信じています。
オフの過ごし方
―自己成長、自己責任、反省、みたいなサイクルで毎日を過ごすと疲れが溜まると思いますが、休み方は何か工夫をしていますか?
休んでいるとは思います。休みは美味しいご飯を食べに行くこともある。でも平日働いていると、休みの方にやりたいことが別に溜まって行くんですよね。読みたい本とかも溜まりますし。
その代わり、どうでもいい飲み会とかには絶対に顔を出したくないですね(笑)。少数の人とじっくり話すのが好きなので、交流会という名の大きな飲み会とかはあまり興味がありません。
現職(IT系メガベンチャー)で働くことを決めた理由
―今のメガベンチャーに決めた直接のきっかけは何なのでしょうか?
日本に帰ってきたときに、次はキャリアアップする選択を取ろうと思っていました。
実は日本に帰ってきたあとに入社したインドビジネスのコンサルティングの企業が3ヶ月で事業撤退してしまい、その後1ヶ月だけ外資系の大手製薬企業で働いていたことがありました。(転職時に年俸500万円超え、30代半ばで1,000万円を超え、福利厚生も手厚い待遇)
安定した福利厚生と給与が保証されていたのですが、働き始めてからの違和感がすごくありました。去年まではTwitterやブログで、個人のブランディングと信用で仕事を貰っていたのに、その企業の中では個人のアイデンティティーは重視されないという現実にぶつかって、これは今まで自分が描いていたキャリアパスとは全然違うなと思いました。
製薬企業で働く中では資格を取ることを指導されたのですが、そこに対してすごくアレルギーがありました。自分の中で看護の資格を取ったことはすごく失敗だったと思っていて、要するに自分自身が使わない資格は、それがどんなに社会的な価値があるものだとしても必要がないな、と。その使わないであろう資格のために勉強の時間とエネルギーを費やすことに抵抗を感じました。
その結果、1ヶ月と言う短い期間ではありますが、退職することを決めました。
そこで再度キャリアについて考える必要に迫られました。もう一度インドに戻るか、と言うことも選択肢に入れてすごく悩んだのですが、日系企業での駐在枠を探したときに現実は95%くらいが男性で占められているので、それほどポジションがありませんでした。
ですので、そこからもう少し枠を広げて、グローバル展開をしている日本企業の中で、途上国のマーケットを対象としており、かつインドに特化している企業・・・と言う方向で企業を探しました。現地採用で戻ることもあったのですが「結局現地採用は、現地採用のまま」というキャリアは、ロールモデルにはならないと考えました。
エージェントを使わずにインド関係求人をどのように転職先を見つけたのか
―インドから帰国し求人を探す際には、エージェントを使ったのでしょうか?
使いませんでした。インドに進出している日系企業かつ、今後インドビジネスで成長が見込めると思う企業をピックアップし、その企業に対して、履歴書を直接送りました。インドに進出している企業であれば、インドに関連するポジションがあるはずだ・・・と自分の中で仮説を立て、履歴書の中でインドの経験があることをアピールする形で応募しました。
この仮説は結構当たっていて、日系の製薬や流通企業など、面接まで進めるケースが多くありました。
―その中で、今のメガベンチャーにはどうやって落ち着いたのでしょうか?
その時期に参加した異業種交流会の中で、現職の戦略担当の方と名刺交換をする機会があり、話をさせて頂きました。インドに住んでいたことがあって、ブログで情報を発信していて、インドの仕事をやりたいと言う気持ちを持って転職活動をしている・・・とありのままを伝えた訳です。
そうしたところ、一度その企業の採用面接を受けてみないか、と言う話をいただくことができました。その背景には、その企業がグローバル化を志向しており、インドを中心とした外国籍からエンジニアの採用を強化したい、と言う話がありました。
面接の中では「インドのエンジニアを採用するにあたって想定される課題」や「インド人の一般的な気質・傾向から気をつけるべきこと」などを自分の経験をもとに話しました。その結果、内定を頂くことが出来ました。
実は同時期に別の日系企業からインドの駐在要員としての内定を頂いていたのですが、自分自身がIT業界に憧れていたことや、IT業界の成長度と言うことが魅力的に映り、現在のメガベンチャーを選びました。
2018年10月から働き始めた現職では、外国籍のエンジニアのケアをしています。日常的なケアだけでなく「採用した外国籍人材のキャリアパスが可視化」「日本人のエンジニアと外国籍のエンジニアのコミュケーションをどのように活性化させるか」など、見過ごされがちで、かつ重大な離職理由となる事柄について、自身の提案をベースに社内の制度改革を検討するイメージです。
メガベンチャーにおける年収
―その際の提示年収はどれくらいだったのでしょうか?
具体的な数字は控えさせて頂きますが、メガベンチャーで無い日系企業の駐在案件の方が3割程度高い提示を頂いておりました。日系企業のオファーは、この金額に加えて現地の家賃や、年に1回の帰国手当などの福利厚生などが手厚かったので、実質的な金額としては非常に魅力のあるものでした。
ただ私は女性であると言う部分もあるので、28歳から長期に渡ってインドに駐在となると、結婚や出産を現地で行う、と言う選択肢を考慮しなければならず、そこへの不安がありました。25歳の時に同じオファーを頂けていたら、駐在に踏み切ったかもしれません。
ただ今回、こうして現職の企業からオファーを頂けたのは本当に運が良かったと思いますし、オファーを頂けたことにも感謝しています。
また、現職の企業の方が3年後、5年後と中長期を考えた際に、会社としても自分自身としても伸びしろが大きいのでは、と言う感覚を持ちました。
経験を積むなら、その経験を何年後にどう売るかまで考えよ
―年収に対してはどのような価値観をお持ちですか?
インドから帰国した際の話で言えば、明確に年収を上げたいと言う意思はありました。インドで働いていた際の年収は280万円程度だったのですが、いつまでもそこの金額に甘んじてはいけないと言う思いがありました。特にインドに単身で渡った際には、年収よりも経験を重視しようと言う気持ちがありましたが、それでずっとやっていくのは間違いだと思っています。若いうちは経験重視で良いと思うけれど「その経験を何年後にどういう風に売るか」と言う前提のもとに経験を積むのは良いと思いますが、そこを考えずに経験ばかりを取りに行くのは賛成出来ません。
― 一口に海外に出ると言っても「海外駐在」「現地採用」「青年海外協力隊」「ワーキングホリデー」などの様々な切り口がありますが、その良し悪しを知った上で、自信のキャリア構築に意図的に組み込んでいく、と言うプロセスが大事になるのですね。
はい。残念ながら社会は、わかりやすく評価できるものが好きなので、そこで評価を受けたいならば、そのルールの中で「どうやったらみんな納得する結果が出るのか」それを考えることが必要だと思います。日本はまだまだグローバルな人材が不足しています。そこでどれだけ自分がバリューを出せる、と言うことを相手が納得できるように説明して、自分自身を1の商品としてパッケージ化することが出来たら、企業に対して強気で交渉も出来ると思います。
私は今の企業に居たとしても、自分の名前を指名してもらい、仕事ができるような人材でいようという思いがあります。今回、日本で有数のメガベンチャーに就職が出来たことで、みんなが納得するキャリアを獲得したという意味では、より社会の信頼を得やすくなりました。それは一見、本質的でないかもしれませんが、それが必要とされているなら、そういう視点でのキャリアを構築する必要があります。
本当に何かやりたいことが出てきた時に、それを実行するには年長者の決済が必要になったりもします。その時に協力者の方がわかりやすいキャリアを積んでおく、と言うのもある意味必要なプロセスなのかもしれません。
今後構築したいキャリアと、その方向性
―今後、35歳、40歳と中長期ではどんな目標を持っていますか?
まずは今チャンスを頂いた企業でしっかりと結果を出すことに集中したいと思っています。10年くらい先の漠然としたビジョンとしては、北米や欧州の外資系企業で働いてみたい、と言う気持ちがあります。
インドに出て日本を見て感じたのは、自分が学生時代と比べて日本のプレゼンスがすごく落ちているという印象です。日本人として、グローバルな企業で対等に戦える人材でありたいな、と言うのが中長期における、今の目標です。
そこで通用する人材になれば、昔から考えている国際支援とか人道支援と言った分野で、またさらに1歩上のレベルでインパクトを出せるようになるのではないか、そう考えています。そのため、今日も日々の業務を頑張っていきたいと思っています。
--ありがとうございました!
【参考情報】
大角佳代さん本人ブログ
大角佳代さん Twitter
https://twitter.com/kayoreena1021